戦乱の時代へ

室町幕府の統治が崩壊すると、全国各地で戦国大名が一族の存亡を賭けて争う戦乱の時代へ突入しました。大きな流れとしては群雄割拠の中から織田信長が登場し天下統一の足がかりを作り、豊臣秀吉を経て、徳川家康が天下統一し江戸幕府を開くということになります。ここではまず、全国でどんな戦国大名が現れてどんな活躍をしたのか、みていくことにしましょう。

北条早雲 〜相模〜

北条早雲はもともと駿河の守護大名・今川義忠に仕えていました。早雲の妹が義忠に嫁いでいたこともあります。その今川氏は後継者問題で分裂しかけました。早雲はその内乱の解決に活躍して、1487年に興国寺城を与えられました。早雲すでに56歳です。
その後、堀越公方足利政知の死後に後継者争いが起き、茶々丸(長男)が2代目堀越公方を名乗ると、早雲は政治的混乱に乗じて茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆一国を手に入れてしまいました。さらに奇策を用いて小田原城を攻め落とし、上杉氏が内乱中の相模に進出、1516年に名門の三浦一族を滅ぼして相模の国を手に入れました。このとき早雲はなんと85歳です。

毛利元就 〜安芸〜

中国地方では山口の大内氏と出雲の尼子氏が二大勢力でした。国人や小大名は、対立している両者のいずれかについていました。安芸吉田群山城の毛利氏は大内氏側でした。元就は当主の次男として生まれます。のちに毛利氏は尼子氏側につき、元就は重臣として活躍するようになります。家督相続した兄・興元とその遺児・幸松丸が相次いで病死してしまうと、異母弟の元綱と家督争いをして勝利、毛利氏の当主となりました。このとき、家督争いに尼子氏が介入しようとしたんです。それを察知した元就は、当主就任後すぐに大内氏に鞍替えしました。尼子氏は怒り、大軍で吉田群山城を攻撃しましたが、元就は大内氏の援軍もあってこれに勝利。その後、元就は有力豪族の吉川氏と小早川氏に二人の息子を養子に出して取り込んで、安芸一国を支配する戦国大名に成り上がりました。

織田信長の登場

1543年夏、台風の直撃を受けて難破した中国船が、種子島の南橋近くの入り江に一隻の漂着しました。中国船ながら、船長はポルトガルの商人で、鉄砲を持っていました。この最初に日本に伝えられた鉄砲は東アジア製のB級品で、点火までに時間がかかり、弾丸も遠くまで飛ばなかったようです。
1549年にはカトリックの宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸します。スペイン・バスク地方出身のイエズス会士です。
群雄割拠の戦国時代、織田信長がめきめきと頭角をあらわします。織田信長は1534年(天文3年)5月28日、愛知県西部(尾張国)の勝幡城(しょばたじょう・かつては那古野城と呼ばれていた)で生まれます。生まれた日については、5月11日もしくは12日とする説もあります。幼名は吉法師です。父親は尾張守護代家に仕え、清須三奉行の一人であった織田信秀、母親は土田政久の娘の土田御前です。
1546年、古渡城(ふるわたりじょう)で元服し、那古野城主となりました。1551年に父・信秀が流行病で亡くなりましたが、その葬儀の焼香で、抹香を仏前に投げつけた話は有名です。信長は他にも礼節をわきまえないような行動が目立ったため、「尾張の大うつけ」などと呼ばれていました。

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テツオ

「うつけ」というのは、愚か者、ぐらいの意味だね。    

1560年、「桶狭間の戦い」で、今川義元の2万5000の兵に対してわずか2000の兵で迎え撃ち、義元の首を討ち取ります。この戦いには諸説あります。今川義元が上洛中だったという説や、そうではなく今川方の大高城と鳴海城が織田方に包囲されたので救援にやってきた説、攻撃のかけ方についてもいろいろな説があります。
続いて、三河国の松平元康(のちの徳川家康)と手を結び、美濃国の斎藤氏を退けました。

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テツオ

松平元康は今川氏の配下だったんだ。織田信長が今川義元を破ったので今川氏から独立し信長と同盟を組んだんだね。そうすることで信長は背後を固め、美濃攻めに専念できるようになったんだよ。

1568年には足利義昭に接近、将軍にまつりあげて、覇権を握りました。

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テツオ

足利義昭は奈良・興福寺一乗院の僧だったんだけど、兄の義輝(13代将軍)が三好三人衆に殺害されたため、将軍家再興を目指して、脱出して還俗したんだよ。越前の朝倉義景らを頼ったんだけど・・・

1571年には、信仰による結束力が強く、経済力や軍事力も兼ね備えた延暦寺を焼き討ちにします。そして、1573年には、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させました。

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テツオ

信長と義昭の思いは違ったんだ。信長は義昭に期待したのは、将軍として朝廷に奉仕することであり、政治は信長に任せてほしかったんだ。要するに傀儡だね。一方で、義昭は本気で将軍権力の再興をはかったんだよ。直属の軍事力がほとんどないので、甲斐の武田信玄に働きかけて軍事行動を起こしたりしたんだね。信玄が死んでしまったことなどがあり、義昭も結局追放されちゃったけど。

信長は鉄砲とキリスト教をうまく取り入れました。先に書いたように、当初の鉄砲はあまり魅力的な代物ではなかったのですが、信長は試作品の将来性に目を向け、新製品を大量発注しました。1575年の長篠の戦いで足軽の傭兵部隊に鉄砲を持たせ、武田勝頼の騎馬隊を破りました。また、寺社勢力に対抗するために、キリスト教に寛容でした。帰依はしませんでしたが、教会や神学校(セミナリオ)の建設を認めるなど、キリスト教を積極的に保護しました。
そんな信長も、1582年初夏、明智光秀の裏切りで自殺に追い込まれます。本能寺の変です。

豊臣秀吉

本能寺の変がおきたとき、羽柴秀吉は信長の命を受け、毛利輝元を倒すべく、高松城を水攻めにしていました。信長横死の知らせをきいた秀吉は、毛利氏と和議を結び、京都に引き返します。そして、信長の弔い合戦で明智光秀を破りました(山崎の戦い)。1583年には賤ヶ岳の戦いで信長の元重臣であった柴田勝家と戦い圧勝、信長の後継者の位置を確保しました、
秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を築きました。また、小牧・長久手の戦いのあと、信長の次男である織田信雄や徳川家康とも手を結びます。1585年には天皇から、関白に任ぜられます。天皇の権威を利用したのです。このとき、わずかな間ですが、羽柴姓から藤原姓に変わりました。関白の座は平安時代から藤原氏が独占していたからでしょうか。しかしながら、その後天皇から豊臣姓をたまわり、豊臣秀吉となります。
秀吉の政策は「太閤検地」と「刀狩」が有名です。
太閤検地は土地調査です。田畑の面積を測量し、それに応じた石高を算出し、一定の年貢を徴収しようとするものです。検地自体は他の戦国大名も実施していましたが、これまでは土地の所有者による自己申告納税、測量の単位も領国によってバラバラでした。秀吉はこれを厳格化しました。度量衡を統一し、精度の高い石高を検地帳に登録させたのです。農民の土地の所有権を法的に認め、一つの土地に複数いた権利者も一人に整理しました。一地一作人とすることで、農民は年貢をごまかせなくなりました。
刀狩は、方広寺の大仏建造の材料調達を口実に、農民から、刀・弓・鉄砲などの武器を没収したものです。本当の目的は一揆防止です。
他には、「身分統制令」や「バテレン追放令」を出しています。

秀吉の朝鮮出兵

秀吉は明に侵攻しようとしました。その理由は諸説あります。「国内問題から目をそらすため」「失業状態となった武士たちに新たな仕事を与えるため」などなど。はっきりした理由はわかっていません。その明侵攻の先導役を朝鮮に求めましたが、拒否されてしまいました。そこで、朝鮮半島に15万余りの大軍を派遣してしまいます。「文禄の役」「慶長の役」と2度に渡る朝鮮侵攻は、7年間にも及びました。この朝鮮侵攻により、朝鮮人の生活も国土も荒廃させてしまいました。最後は秀吉の死で撤退します。
ところで、秀吉の家来に石田三成という人物がいます。彼は文禄の役では戦闘にも参加しているのですが、元々は武官というより文官に近い人物で、物資の調達や連絡役を主に担当していました。慶長の役では渡海せず、後方支援に徹しています。好転しない戦況が続き、現地から「戦略を見直すべき」との声が届くと、三成は素直に秀吉に報告してしまいます。それを聞いた秀吉は、「朝鮮など明の入り口にすぎないのに、そんな弱気でどうする」と激怒、発言した武将たちの領地を減らすなどの処罰をしました。その結果が現地に伝わり、武将たちからは、「三成が俺たちの悪口を言って秀吉をたぶらかしている」、と受け取られてしまいました。さらに、秀吉の死は現地に伝えられませんでした。朝鮮から帰ってきた武将たちの中には、「三成のせいで俺たちも秀吉様も大変なことになった」と思う者も現れました。こうしたわけがあって、秀吉の遺臣たちは真っ二つに割れてしまいます。

天下分け目の関が原

そこに入ってきたのが徳川家康です。秀吉の死後、五大老(豊臣政権の最高決定機関)の筆頭である家康と五奉行(豊臣政権の政務機関)の三成が対立します。三成は豊臣政権を継続させようとしましたが、家康は見限っていました。家康は様々な手段を講じて、三成と仲の悪かった武将たちを味方につけます。三成も負けじと味方を探しますが、朝鮮侵攻の際の出来事などもあって人望がなかったようです。なかなか味方は見つかりません。それでも、家康の台頭を好ましく思っていなかった上杉景勝と直江兼続を味方につけることに成功します。
1600年、家康の東軍と三成の西軍は関が原で激突します。関ヶ原の戦いはわずか半日で家康の勝利が決定的となりました。家康は朝鮮に出兵せず、財も兵も蓄えていたのです。

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