源頼朝

壇ノ浦の戦いで平氏を破った源頼朝は、関東地方の武士の棟梁でした。1159年の平治の乱で伊豆に流された人です。約20年間も伊豆で過ごしました。平氏滅亡以降、1180年に鎌倉に拠点を置き、「侍所」を設けました。1183年には後白河法皇から東国の統治を一任されます。1184年には、一般政務を行う機関である「公文所」や、裁判所である「問注所」を設置しました。1185年には地頭・守護の設置を朝廷に認めさせます。このことは、武士が土地の支配権を国司(受領)や荘園領主から奪ったことを意味します。そして、1192年、征夷大将軍となりました。

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テツオ

「イイクニつくろう鎌倉幕府」ってとても有名な語呂合わせだね

将軍となった頼朝は、御家人(武士)と「御恩」と「奉公」の関係を結びました。「御恩」というのは、御家人に対する本領安堵・新恩給与のことをさします。「奉公」というのは頼朝に対する奉公です。また、頼朝は新しい政策を始めるときは天皇にお伺いを立てることで、朝廷とも良好な関係を維持しました。

承久の乱

1199年に源頼朝が死に、北条時政が権力を握りました。北条時政は頼朝とは違い、朝廷とは良好な関係を築けなかったようです。北条氏の支配を好まない後鳥羽上皇が、北条氏討伐の号令をかけます。時政は御家人に京都を攻めるよう命令します。御家人は時政に従うべきかどうか悩みました。恩賞が得られなくなっていたようです。しかしここで、北条政子が大演説を行い、御家人は京都に攻め入ります。「承久の乱」(1221年)です。後鳥羽上皇は敗れ、隠岐の島に流されてしまいました。承久の乱の後、京都には六波羅探題が設置され、朝廷と西国の御家人の動きが監視されるようになりました。これは、幕府の支配が朝廷・西国にも及ぶようになったことを意味します。

御成敗式目

1232年には、頼朝以来の先例や、武家社会での慣習や道徳をもとに御成敗式目が制定されました。貞永式目ともいいます。これは、武士政権のための式目です。

元寇

13世紀後半、元王朝のフビライ・ハンは何度も日本に使者を送ってきます。しかし、執権北条時宗はシカトし続けました。1274年、元・高麗の大軍がついに博多湾にやってきます。「元寇」です。この襲来は暴風雨で退却しました。もう一度やってきましたが、今度は神風が吹いて退却しました。実際のところ、暴風雨・神風はあったかもしれませんが、元から何度も使者がやってきた時点で時宗も事前準備ができたんですね。また、御家人が健闘したと言われています。

鎌倉幕府の滅亡

北条氏は独裁体制を敷きました(得宗専制)。御家人は元寇でも健闘したのですが、十分な恩賞をもらえず、不満がくすぶります。朝廷は、大覚寺統と持明院統に分裂して対立、交互に天皇を出すというおかしな状態になってしまいました。その中で大覚寺統の後醍醐天皇という人が出てきます。倒幕を2回企てますが失敗して隠岐に流されます。それでも後醍醐天皇は諦めませんでした。隠岐から脱出します。そして、足利尊氏に六波羅探題を攻撃させます。また、新田義貞が海から鎌倉に攻め入りました。1333年、北条高時は自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
建武の新政
その後、後醍醐天皇は元号を「建武」と改め、親政(天皇が自ら政治を行うこと)を行いました。都に記録所・恩賞方・雑訴決断所などを作り、一切を朝廷で決済しようとしました。

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