平安時代の幕開け

平安京に遷都した桓武天皇が自らに課した最大の政治課題は2つありました。一つ目は、律令政治の再建です。勘解由使を設置し、国司の監督を強化しました。班田収授法の見直しを行いました。地方の兵士の再編を行いました(健児)。農民の雑徭の負担減を進めました。二つ目は、蝦夷の平定です。
桓武天皇の後の嵯峨天皇の時代、「令」の定めにない検非違使などの新しい官職を設けました。また、「弘仁格式」「貞観格式」「延喜格式」の三代格式が制定されました。

藤原摂関家の繁栄

9世紀半ばから、藤原良房による摂関政治が始まりました。摂関というのは、摂政と関白のことで、摂政というのは天皇が幼いとき、関白は天皇が成人してから、天皇を補佐して政務を行った重職です。藤原良房は皇族以外で初めて摂政の座につきました。以降、良房の子孫が摂関となるようになりました。
藤原家の全盛期は藤原道長の時代といわれています。藤原道長は4人の娘を天皇に嫁がせることに成功し、のちに孫の3人が天皇に即位します(後一条・後朱雀・後冷泉)。道長は4人の娘に家庭教師をつけていました。その中にはあの紫式部や清少納言がいました。紫式部は『源氏物語』、清少納言は『枕草子』の作者として有名ですよね。道長は荘園からの収入と国司や他の貴族からの献上品で華やかな宮廷生活を送り、こんな句を残しています。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
道長の息子の藤原頼道も約50年間、摂政・関白となりましたが、その後は次第に形骸化していきました。とはいうものの、江戸時代の終わりまでは藤原一族が摂政をつとめています。最後の摂政・関白は、藤原北家の二条斉敬です。

国風文化

この時代には、中国文化の影響が薄れ、日本人好みの文化が生まれました。なぜ、中国文化の影響が薄れたか?遣唐使が停止となったためです。この日本独自の文化の最大の特徴は仮名文字でしょう。これまでの漢字(真名といいます)だけの筆記から、仮名文字を生み出したことで、表現が豊かになりました。女流作家による作品が有名です。さきほども取り上げました、紫式部『源氏物語』や清少納言『枕草子』、藤原道綱の母『蜻蛉日記』、菅原孝標の娘『更級日記』などです。ちょっと変わったところでは、紀貫之『土佐日記』があります。これも仮名文字で書かれていますが、紀貫之は土佐の国司、男性です。

治安悪化と武士の誕生

徐々に都の治安は悪化します。貴族たちは下級役人をガードマンに雇うようになります。具体的には弓矢を持たせて屋敷の警護にあたらせました。このことを「さぶらふ」と言います。そう、侍の語源ですね。
国司は、監視の目が薄れたのをいいことに、税を取り立てるだけの存在となってしまいます。律令制は機能しなくなっていきます。誰も土地を守ってくれない、という状況が生まれます。領主や農民は兵となり、自衛のために武器を手にして、領地争いをするようになりました。勢力を拡大するために、地方の豪族と中央の武官との婚姻や主従関係を結ぶなどの交流が生まれました。こうして武士は誕生しました。関東地方では、平将門が国司を追い出して関東地方の大半を占領しました。また、藤原純友という海賊の棟梁が伊予の国府や北九州の太宰府に攻め入る事件が起きました。この2つを承平・天慶の乱(935〜940年)といいますが、いずれも地方の武士により収められました。
有力な武士たちが一族や郎党(侍身分の家臣)を率いてさらに大きな集団(武士団)を作るという時代になりました。2大勢力は源氏と平氏、どちらも天皇の血を引く貴族が棟梁でした。

院政

11世紀半ば、白河天皇は幼い子どもに位を譲ります。ただし、上皇となり政治の実権は手放しませんでした。これが「院政」です。その後の鳥羽天皇の時代まで院政は続きます。鳥羽天皇が1156年に没すると、兄の崇徳天皇と弟の後白河天皇の争いとなります。「保元の乱」です。この争いは、平清盛や源義朝が味方だった後白河天皇が勝ちました。しかし、1159年には平清盛と源義朝が争いを起こします。平治の乱です。平清盛が勝利し、義朝の子の頼朝が伊豆に流されました。後白河天皇は平清盛を行政のトップである太政大臣に任命します。清盛は平氏一族を高位高官に、娘の徳子を天皇の妃とし、その子はやがて天皇となります。しかし、長くは続きません。1185年、壇ノ浦の戦いで、平氏は滅亡します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です