平城京

710年、元明天皇は都を藤原京から平城京に遷都しました。平城京は、唐の都長安を真似た条坊制の計画都市でした。条坊制とは、縦横の道路で碁盤の目状に分けた都市の区画制度のことをいいます。南北9条(約4.8キロ)、東西8坊(約4.3キロ)ありました。

仏教色の強い時代に

元正天皇を経てその次の聖武天皇は、都を恭仁京(京都)、難波京(大阪)、紫香楽京(滋賀)と移しました。政情不安が高まったためです。しかし、都を移すだけでは政情不安はおさまりませんでした。そこで、743年に「大仏建立の詔」が出されました。仏教の力で国の安定を図ろうとしたのです(鎮護国家)。こうして、有名な東大寺の大仏(盧舎那仏)は建造されました。9年の歳月がかかり、延べ260万人の労働者が従事したといわれています。当時の日本の総人口が約600万人だったといわれているので、大変な事業だったことが伺えます。労働者の負担だけではなく、国中から金・銅・材木などが集められました。国を挙げて仏教が奨励された時代で、地方にも多くの寺院や仏像が建てられました。当時の文化を天平文化といいます。『古事記』『日本書紀』『風土記』が有名です。

農民の負担

律令制では、戸籍と台帳に基づき、6歳以上の男女に一定面積の耕地が与えられました(口分田)。与えたといっても、実際は国が農民に貸している公地です。口分田では、イネの約3%を国に納入する義務がありました。「租」といいます。国に納めるものは他にも「調」(郷土の特産品)、「庸」(布・綿など)がありました。いわゆる税ですね。農民の義務はそれだけではありませんでした。堤防の築造や道路改修を行う雑徭や、成人男性の3分の1には衛士や防人などの兵士などの義務がありました。非常に重く厳しい負担から逃れるため、家や口分田を捨てて土地を離れる農民が増えます。どうなるでしょうか?そうです、税収が滞ってしまいました。

荘園の始まり

農民を戻すべく、723年には「三世一身法」が出されました。農民が新たな灌漑施設を作って開墾した土地に限り、その所有権を三代に渡って認めるというものです。それでも思うように農民が戻らなかったため、743年には「墾田永年私財法」が出され、開墾した農地の永久保有を認めることにしました。その結果、多くの農民が戻りましたが、その多くは自作農ではなく小作農でした。財力のある貴族や寺院が逃げた農民を呼び集めて開墾させたのです。こうして、”社会主義的”な公地公民制度は崩壊し、”自由主義経済”のもと貴族や寺院が広大な土地を所有するようになりました。荘園の始まりです。

孝謙天皇

さて、大仏を建立した聖武天皇の後、女性の孝謙天皇が即位しました。藤原仲麻呂(惠美押勝)が実権を握っていましたが、天皇の病を験力で直した弓削道鏡が政治にも口出しするようになり、藤原仲麻呂を倒してしまいます。弓削道鏡は皇位を狙いましたが、和気清麻呂に阻止されています。

桓武天皇

その後、桓武天皇が即位しました。渡来人の血を引いていたようです。桓武天皇は仏教勢力の影響が少ない京都南部に長岡京を構えました(784年)。水利の良さもありました。しかし、造営中に責任者の藤原種継が暗殺されてしまいます。首謀者は処刑されましたが、それだけではおさまらず、桓武天皇の弟である早良親王に疑いの目が向けられました。早良親王は流刑地の淡路島に向かう途中で衰弱死してしまいます。さらに、桓武天皇の妻や近親者が次々と謎の死を遂げます。天然痘の再流行や洪水などの天災も起きました。桓武天皇は長岡京をあきらめ、794年に平安京に遷都しました。「鳴くようぐいす平安京」という語呂合わせで有名ですよね。平安時代の幕開けです。

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